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「青森山田時代」が終焉を迎えなかった理由…偉大な前任者の後を継いだ名参謀・正木昌宣監督の決意

 青森山田の指揮を執るのは正木昌宣(まさき・まさのり)監督。2004年からコーチとしてチームを支え、1994年から2022年まで指揮を採った黒田剛前監督(現・町田ゼルビア監督)の後を引き継ぎ、「結果」を出したことになる。(取材・文=川端暁彦)

■山瀬功治と渡ったブラジル

 その「原点」はブラジルにある。

 生まれは北海道札幌市。小学校4年生まで野球少年だった正木昌宣監督は、中学へ上がる段階で針路を地球の反対側へと切った。ブラジルへのサッカー留学である。

以下に続く

「自分の子どもがそんなことを言い出したら絶対に反対するでしょうね」

 父となった現在の「正木監督」は、そう言って笑う。

 北海道から一緒に海を渡ったのは、山瀬功治。後に日本代表にも名を連ねる技巧派MFと二人で初めて異国での生活を始めた。想像していた世界は、華麗で技巧的なブラジルサッカーのイメージとは異なり、「本当に生きるためにサッカーをしている」少年たちの戦いの場だった。

「間違いなく、あのときの経験は今の自分にも生きている」

 技術があるのは当たり前。その上で戦える選手でなければ生き残れない世界を目撃したことは、正木氏の現在のサッカー観にも繋がっている。

 2年半の留学生活を経て帰国したあと、選んだ針路はまたしても周囲の予想とは違うものだった。同じ北海道出身の青年監督、20代の若さで青森山田高校の指揮官になっていた黒田剛監督のオファーを受けて、津軽海峡を渡って新しい土地へ踏み入れた。

「こんなに長いこと青森にいることになるとは思わなかった」

 3年間の高校生活。1年生からレギュラーを勝ち取ると、まだ全国的な強豪とは言えない時代の青森山田で奮闘。3年次には主将で10番という不動の主軸選手になり、3年連続での選手権出場というこれまでの青森山田が為し得なかったことを達成。それまで県での連覇自体がなかったチームで黄金時代への端緒を築いた世代なわけだが、正木氏に当時の話を振ると決まって出てくるのが「自分の代が高校総体の県予選で負けたのが、青森山田が最後に県内で負けた試合になってしまった」という事実だったりもする。

 ちなみに青森山田は、この正木世代での3連覇から青森県内の覇権を一度も譲っていない。

■黒田監督との分業体制

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 仙台大学を経て、「教え子が戻ってきてスタッフになっている他の名門校に憧れていた」と言う黒田監督のラブコールもあり、母校に教員として帰還。以来19年、「黒田の参謀」として青森の強豪が全国最強校へと成長していく過程を共にした。

「自分の中で黒田剛の影響は間違いなく大きくあります。ずっと一緒にやってきたし、いろんなことを学び取ってきた」

 経験を積む中で信頼関係も深まり、指揮官から権限を徐々に譲られてもいった。当時、黒田監督が中学校を含めた「全体のマネジメントに自分は力を入れて、一歩引いた位置からチームをまとめたほうがいいと考えるようになった」要因の一つは、「正木になら任せられるし、任せても大丈夫だと思えるようになった」ことだった。

 結果的にこの分業体制は最強チームの源泉となった。正木氏はトレーニングに自分のアイディアを採り入れていく一方で、「自分は“コーチ”なので、黒田監督が言いそうにないことは絶対に言わないし、どういうことを大事にするかはわかっている。そこは大事にしていた」とも言う。

「コーチが“自分”を出し過ぎて、監督と違うことを言い始めるようなチームはすぐにダメになる。選手が誰の言うことを聞けばいいのかと混乱してしまうのは本当に良くない。監督がチームを離れる時間が長くなるからこそ、逆にそこは気を付けていた」

 こうした「人に任せる部分を任せて、自分は決断するところや組織全体のことを考えて動くようになった」という黒田監督の変化は青森山田の躍進に繋がっただけでなく、現在の町田にも通じる部分があると思うが、「正木昌宣」という一人の指導者を強烈に成長させることにも繋がった。

 昨年秋、「正木監督」が誕生したとき、黒田監督は「正木なら大丈夫。簡単じゃないと思うけど、別に心配はしていない」と言い切った。この二人には独特の強い信頼関係があるのだが、そのときあらためて、黒田監督にとっての「正木昌宣」の大きさを感じたものだ。

 事実、フットボールの指導という部分に不安はなかった。ただ、監督の仕事はそれだけではない。チームの象徴であり、顔である存在が去った影響は確実に出てくるもの。だからこそ、高校サッカーは監督の退任が時代の切れ目になることも多い。そこに「青森山田時代の終焉」を感じ取ったものも少なくなかった。

■結果によって見え方が変わる

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 昨年度の全国高校サッカー選手権は8強で終幕。その後の東北新人大会で正木監督は「色んな人に『なんだ8強かよ』と言われちゃうのが青森山田。全国の8強に残るのは本当に凄いことで、選手たちはよくやってくれたんですけどね」と苦笑いを浮かべつつ、「今年結果を出すか出さないかで、周りからの見え方が変わるのはわかっている」と決意も語っていた。

「選手たちにそんなことは言わないですけどね」とも言っていたのだが、名門となったチームの伝統を引き継ぐために、「結果」にこだわる気持ちは強く持っていた。4月からの高円宮杯プレミアリーグではそうした意気込みがポジティブに作用し、チームは好結果を積み上げた。Jユース勢にも大きく勝ち越し、「青森山田健在」を印象付けることに成功する。

 だが、迎えた夏の全国高校総体は3回戦で敗退。「1戦目も2戦目も自分が勝ち急ぎ過ぎたことが敗因だった」と正木監督は言う。「ずっと明るいチームだったんですけど、暗くしてしまった」とも。勝ちにこだわるのは青森山田の大前提。ただ、勝とうとする余りに硬くなって敗れてしまうのでは本末転倒である。

 迎えた選手権はそうした反省をフィードバックした。勝ち上がる中でよりプレッシャーも強まったが、決勝の試合前も選手たちは満面の笑顔で集合写真に収まり、指揮官がコーチ時代から徹底してこだわってきた「青森山田らしさ」をピッチ上で体現。強く激しく速く、近江高校を攻守で上回り、シュート2本に抑えての3-1での快勝。指導者として4度目の栄冠を掴み取った。

 監督としての「プレッシャーは感じていなかった」と強調する。選手たちも「自分たちには一切悩んでいるところとか見せない人」(MF芝田玲)と言う。ただ、かつて日本一になって涙する黒田監督を観て「なんで泣いてるんだろう?」と思った鉄の男も、優勝の瞬間には涙がこぼれてきた。「これが監督か」。そう思った。

「自分はJリーグとかは興味がない。育てる人でいたい」と常々語ってきた指揮官は、決勝後には早くも来季へ気持ちを向けていた。これから雪深くなる青森の地だが、「雪から逃げないのが青森山田」と言って笑う指揮官の下、また強いチームが生まれてきそうだ。

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