クリスティアン・エリクセンは、デンマークのメデルファートというのどかな町に生まれた。メデルファートとオーデンセにある地元のユースクラブで頭角を現すと、アヤックスでの大活躍によってロンドンへの移籍の道を切り開き、約束されたキャリアの成功を掴んだ。2013年にトッテナムへ移籍してからというもの、一躍プレミアリーグのスーパースターになり、同時に祖国のヒーローとなったのだ。
『Goal』と『SPOX』は、エリクセンのコーチであったモアテン・オルセン、マーティン・ジョル、グレン・リダースホルム、元同僚、ウルビー・エマヌエルソンとレスリー・デ・サにインタビューを敢行。そして、彼にとってある種関係の深いマリオ・ゲッツェにも話を聞くことができた。
これは、始めは謙虚で物静かだった少年が世界を代表する選手へと駆け上がった物語。そこに至るまでに、彼は爽快なほど冷静なキャリアの選択をしてきた。チェルシーのようなトップクラブのきらびやかな誘惑、大金には目もくれず、自身が最も輝くための道を選んできたのだ。
取材・文=マキシミリアン・シュメッケル、ニクラス・ケーニヒ
■偉大なキャリアの一歩目
PROSHOTS黄色い紙吹雪が金髪で細身のティーンエージャーの肩に降り注ぐ。NACブレダのファンは声を荒げ、チャントや太鼓を打ち鳴らしている。黄色い紙きれが降り続く中、クリスティアン・エリクセンは音のする方へちらりと目をやった。
彼はラスムス・リンドグレンとケネディ・バキルジョールの間に陣取り、まっすぐに前を見つめている。相手サポーターの騒音は気にも留めない。この数分前まで、彼がプロサッカー選手としてトップチームデビューを果たすことになるとは誰も想像できなかっただろう。
この日の前日、アヤックス指揮官マルティン・ヨルは彼を先発させることをふと思いついた。エリクセンが試合前に戦術ボードに自分の名前を見つけた時は、衝撃以外の何物でもなかったという。
ヨルは当時を振り返る。「まだほんの17歳だったけれど、すでに良い選手だった。先発で使わなきゃダメだと思ったんだ。感情がないみたいだったよ。まっすぐ私を見て言ったんだ。『大丈夫です、やります』とね。このぐらいの歳の子は大抵心配したり考えすぎたりするものだけど、クリスティアンはそうじゃなかった」
ホームのファンは大声で歌い続けた。実際その声は非常に大きかった。エリクセンはのちにその迫力が印象的だったと振り返っている。しかし、その試合はそのデンマーク人にとって到達点ではなかったのだ。
ほぼ満員のNACスタディオンでのキックオフから遡ること少し、エリクセンはルイス・スアレスとハグをした。スアレスは当時アヤックスのキャプテンとしてデビューしたところだった。スポーティーな長髪をなびかせ16番を背負ってプレーしていたこの男は、ウルグアイ代表で現バルセロナのスーパースターだ。スアレスは、彼の耳元で励ましの言葉を囁いた。
エリクセンはキャプテンのアドバイスに頷いた。その少し後で、彼はボールを初めて触ることになる。そのタッチはまさに彼のシニアでのキャリアの出発点であり、恐怖を覚えるほどの出世街道の始まりだった。
当時、すでにオランダの若きタレントだった。そして、早くから兆候が見出されたからこそ、彼はアムステルダムで、そして次にロンドンで類まれなプレーメーカーとして花開いたのだろう。メデルファートの才能豊かなユースプレーヤーからフットボールエリートの一員に、エリクセンが進化を遂げるのに一役買った人たちがいる。『Goal』と『SPOX』は、当時の彼のチームメイトやコーチに話を聞いた。
■支えた父の教え
よちよち歩きの赤ん坊が目をぱっちり開いて、不思議そうにカメラを覗き込んでいる。エリクセンは2016年7月にこの写真をインスタグラムに投稿した。「僕の物語はメデルファートからスタートした。そこで僕はプロサッカー選手になることを夢見ていたんだ。そして今、僕はその夢の中に生きている」
この写真の子供は誰だろうか? もちろんエリクセンだ。彼にとってメデルファートは全ての始まりの地である。メデルファートはデンマーク南部のフュン島にある町だ。中世には重要な港町として名を馳せた。しかし今では、この町の人口は1万5000人。南デンマーク地域の都市の中でもトップ20にも入らない。それでも、メデルファートは平和な町だ。野生動物公園、陶磁器美術館、映画館、カルチャーセンターや小さい港もあり、1700メートルの長さを誇る自動車道路橋もある。そしてもちろん、たくさんのサッカーグラウンドも。
メデルファートの男子シニアチームとアカデミーは、8つのグラウンドでトレーニングを行っている。5歳の子供から17歳の若者まで600人がこのクラブで活動し、シニアチームはデンマーク3部リーグに所属している。クラブの途方もなく広い芝生とカフェテリア、レクリエーションセンターが10年間エリクセンのホームだった。この場所こそ彼が幼稚園から10代までの成長期を過ごした地であり、同世代の中でも最も偉大なプレーメーカーの一人へと成長する下地を形成した場所なのだ。
エリクセン一家はグラウンドの目と鼻の先に住んでいた。またクリスティアンの両親、父トマス(Thomas)と母ドルセ(Dorthe)は今もそこに住んでいる。クリスティアンは可能な限り頻繁に実家へ帰り、少年時代の友人と今も会っている。3歳の頃、彼はすでに家の庭でサッカーを始めていた。
「サッカーは僕の家族にとっていつだって大事なことなんだ」エリクセンは語る。
妹もサッカーをプレーしていたし、両親二人共サッカー経験者だ。自動車会社のセールスマンである父親も能力が高く、プロサッカー選手になる一歩手前まで上り詰めている。
「本当に小さな頃から、僕はいつもサッカーをやってきた。バドミントンも経験して、トーナメントで優勝したこともあるけど、それは全部サッカーのためにやっていたんだ」
エリクセンが若い頃から特別な存在だったことは誰の目にも明らかだった。トマスはデンマーク紙『ユランズ・ポステン』で、「お隣の息子はだいたい3歳ぐらい歳上だったけど、ある日彼が友人とサッカーをやっていたんだ。クリスティアンはそこに駆け寄っていって輪に加わった。2倍も歳の離れた子供たちに混じって遜色ないプレーを見せたんだ」と当時を振り返る。
文字通り、ボールは彼の最高の友達だった。父親は語る。「10歳になるまで、彼はボールを抱き寄せて寝ていたよ。ボールは彼にとってぬいぐるみの動物みたいだった」
エリクセンのフットボールDNAに今も根付く最も重要な教えを説いたのも父親だった。「常に自分のエゴを自覚して、謙虚になりなさい」ということだ。
デンマークU-17代表チームでエリクセンの監督だったグレン・リダースホルムは語る。「父親は彼を一人の少年として教育した。『フットボーラーは一人ではなんの役にも立たない』と説いたんだ。その教えは今もクリスティアンの心の中にある」
トマスは、息子の所属する最も優秀なユースチームの監督だった。2004年に行われたデンマーク国内最優秀チームが出場するU-12の大会をメデルファートは5位で終えた。5シーズン中4シーズン、チームは負け無しで地方リーグを完走した。『ガーディアン』紙に「ボールを持ってプレーするのはいいことだと彼らに教えていた。我々は前を向いてプレーしていたよ。後ろは見なかった」と話している。
父親はまた、試合が終わったあとの帰りの道中、すぐさま車中で試合の修正点を議論していたのだった。そして、エリクセンのそばにはいつもラスムス・ファルクがいた。彼はコペンハーゲンと契約するプレイヤーだ。エリクセンとは5歳の頃からの仲である。
ある時、メデルファートはハーフタイムの時点で0-4で負けていた。打つ手がないように思われたし、何も機能していなかった。エリクセンの父の後任を努めていたトニー・ヘルマンセンは、その試合を異次元に昇華させたクレバーな二人組のことを覚えていた。「クリスティアンとラスムスはボールを奪うと、協力してゴールを決めたんだ。そして、何度も何度も、何度もゴールを決めたよ」
エリクセン少年はドリブルが大好きだった。庭に簡易的なゴールポストを作って、少年時代のアイドルだったフランチェスコ・トッティやラウドルップ兄弟を真似ていた。そしてそんな彼は今、メデルファートで彼の憧れの存在のような役割を担っている。
クラブの施設には彼のユニホームが飾られている。彼の物語は数え切れないデンマークの才能ある若者を刺激し、その足跡を辿って同じように夢を叶えようと思わせるのだ。クラブの社長、クラウス・ハンセンは『ガーディアン』紙に語る。「今では、メデルファートの名前は重要なものです。子どもたちはこう思っている。『クリスティアンはメデルファート出身だから、僕もメデルファートでプレーしたい』ってね」
メデルファートで10年を過ごした後、ついにエリクセンが故郷から離れる時がやってくる。13歳の頃、できるだけ故郷の近くにいられるよう、オーデンセのユースアカデミーに移籍した。そこで彼は、地方のダイヤの原石の1人から、デンマーク史上最高峰のタレントへと成長したのだ。そして瞬く間にエリートクラブへ引き抜かれ、世界の注目を集める存在へとなっていく。
■恐ろしいほどに冷静な少年
リダースホルムは24年の監督人生の中で、たった1人だけ文句のつけようがなかった選手がいたと振り返る。
「彼は17歳で、成長意欲が著しかったことを頭に入れておくべきだ。私は彼を自分の思い通りにしようとしたことなんてなかったよ」。現在デンマーク1部所属のソナーリュースケで指揮をとる46歳はこう語る。「クリスティアンと過ごした時間はかけがえのないものだった」
リダースホルムは、デンマークU-17代表でエリクセンを指導した。そして彼は、今でもあの時の思い出にふけることが大好きなのだ。“メデルファートユースの神童:クリスティアン・エリクセン”が“世界を股にかけるスーパースター:クリスティアン・エリクセン”になったあの時を――。
「誰もがずっと話題にしている、そういう少年がいることは知っていたよ。私が彼の監督になった時、周りの称賛は決して誇張ではないと分かったんだ。彼はゲームの展開を巧みに読み、他の誰もが見えないことも見えていた。これまでの教え子の中で飛び抜けていた」
若い頃のエリクセンについて、誰もが口をそろえて言うのは「あれほどの衝撃にこれまで出くわしたことがない」ということだ。
アヤックスでエリクセンとプレーした元オランダ代表MFウルビー・エマヌエルソンは「彼はまさに、これまで見た中で最も才能のあるプレーヤーの一人だ」と語っている。そしてエールディビジでトップチームデビューの機会を与えたヨルも、彼に惜しみない賛辞を送っている。
「彼ぐらいの年齢であれほどの技術をもったプレーヤーはこれまで見たことがない。トッテナムやハンブルクで一流のタレントと仕事をする機会があったけれど、彼ほど上手い選手はいなかった」
オーデンセの町は、メデルファートから45km東に位置している。エリクセン少年はフットボーラーとしての夢を現実にすべく懸命に努力していた。今でもそうしているように。エリクセンの信念の中心には、常に慎み深さを重んじる心がある。
リダースホルムは語る。「クリスティアンはいつでも地に足が着いていた。彼の仲間はいつだって『認められたい、有名になりたい』と思っているのに、クリスティアンは自分のことを特にすごい存在だと思っていなかったんだ」
「もっと若かった時は、周りの人はみんな彼の技術をべた褒めしたり、能力を称賛したりしていたよ。けれどクリスティアンは冷静で、一切関心を持たなかった。彼はハードワークしていたし、いつでも自分自身に批判的だった」
その冷静さとは裏腹に、エリクセンは自分に才能があることに気がついていた。一度、リダースホルムはトレーニング中に自身の才能に気づいているのか尋ねてみたことがあるそうだ。
「僕の目を見て彼はこう言ったんだ。『はい、監督。分かっています』それもごく当たり前のことのようにね。それが他の子供と彼が決定的に違う部分だった。全部分かっている代わりに、そんなくだらないことで大騒ぎしないでいるだけなんだ。そうして彼はどんどん進歩していくんだ」
「とても物静かな少年だった。シャイなわけではない。ただ内向的な性格なんだ。多くを口に出すタイプではなかったが、ピッチの上では自然にリーダーになった。模範となって周りを導き、ゲーム中はただ静かにプレーして、信じられないようなことをシンプルにやってのけるんだ」
ある時、デンマーク代表ユースがジュニアの大会に出たことがあった。エリクセンは重要な試合の序盤にPKを失敗した。
リダースホルムはその時のことを振り返る。「彼は一瞬でも恥じ入って天を仰ぐようなことをしなかった。代わりに責任を持って試合を引っ張ったんだ。結局彼はその試合で2点を奪い、3-1で勝利に導いた」
「そのゲームで彼の才能がどれほどのものか理解した。ただ物理的に技術があるだけではない。精神的にも天才なんだ」
■ただ1人の例外選手
2006年、エリクセンはオーデンセでチームメイトであり友人のラスムス・ファルクと共にU-16のチャンピオンになった。この二人組はすでに大きなに注目を集めていたが、この大会を通してその噂はデンマークの国境を超えた。
Getty Images遠方からスカウトが次々にエリクセンのプレーを見るために訪れ、その若きプレーメーカーは夢のようなパスやフリーキックを披露して彼らをもてなした。今でもデンマークサッカー協会はセミナー資料として、エリクセンがトレーニング中にフリーキックを蹴る様子をビデオで見せている。
オーデンセに3年所属し、エリクセンは世界を背負って立つ準備を完了させた。彼のもとにはいくつかのトップクラブからのオファーが舞い込んでいた。そして、誰もがこの若きタレントが居心地のよい生まれ故郷を離れ、歴史を作っていく時なのだと悟ったのだった。
オランダのアヤックスには、厳しいルールがいくつもある。そのうちの一つが、「若いプレーヤーは契約交渉の前にテストを受けなければならない」というものだ。これには例外はない。クリスティアン・エリクセンを除いて――。
■初めて見たエリートクラブ
アヤックスは、エリクセンへの興味を彼の父トマスと前所属クラブのオーデンセに伝えていた。そしてアムステルダムに来てテストを受けるよう打診した。しかし、エリクセンの父はその要求を断った。
「クリスティアンは何度も引っ越しをしていたし、すでにU-17の代表チームにも加わっていた。学校にもいかなくてはいけない」トマスはその理由を、『ユランズ・ポステン』に語っている。
これはキャリアを左右する決断であったし、良かれ悪かれ、エリクセンの将来の方向性を左右するものであったかもしれない。
この状況がどれほど重大かを特に理解している人物がいる。ジョン・スティーン・オルセンだ。
かつてデンマーク代表も経験した元サッカー選手のオルセンは、1995年にアヤックスのスカウトに就任し、スカンジナビア半島の才能を発掘する仕事に専念していた。彼は2001年にズラタン・イブラヒモビッチの移籍にあたって陣頭指揮を取っており、若い新たな才能を見出す傑出した能力があることで知られている。
この76歳は、エリクセンの高い将来性に非常に胸を踊らせていた。そのため、当時のアヤックスSDダニー・ブリントを説得してデンマークまで同行してもらい、エリクセンの家族に翻意を促してもらうよう頼んだのだ。
2005年にエリクセンがオーデンセのユースアカデミーに加入した時、すでにヨーロッパのトップクラブは彼に目を付けていた。この頃、スカウトたちはほぼ毎日彼を追いかけており、アヤックス以外にもバルセロナ、チェルシー、ミランのようなビッグクラブも例外ではなかった。
エリクセンはその時を振り返る。「僕と相棒のラスムスは、テストを受けにチェルシーに行ったんだ。僕はU-18のチームで3試合プレーして、それからミルウォールやウェストハム……今は名前を思い出せないけど、他のクラブにもテストを受けに行った。ジョゼ・モウリーニョやディディエ・ドログバのような有名人がその辺を歩いていて、有名な選手が揃ってランチを食べに行くのを見ていたよ。だけど当時の僕にとっては、それは“やりすぎ”だった。次のステップに選ぶには単にレベルが高すぎたんだ」
エリクセンは同時に驚きを覚えたという。というのも、エリート選手たちのプロ意識と彼らに対する待遇をブルーズ(チェルシーの愛称)のグラウンドで目の当たりにして、苛立ちすら覚えたのだ。非常に洗練されたエリートクラブに遭遇するのはまさにそれが初めてのことで、それは故郷に戻れば経験することができない類のものだったのだ。
「僕の出身地では、全てのものを自由に利用することができた。誰でも練習場に入れるし、やりたいことを何でもできた。でもチェルシーでは、セキュリティスタッフが24時間警備しているゲートが2つある。それを見て、このクラブの規模がどれほどのものか理解したんだ。少し尻込みしてしまった。ひなびたメデルファートの少年にとっては、それは全く違う世界だったからね」
エリクセンはカタルーニャでもテストを行っていた。5日間をバルセロナのユースチームで過ごしている。
「カタルーニャの代表チームと戦って、90分間で3回しかボールを触れなかった。ボールを90分間追い続けたのに、全く取ることができなかった。その日何が起こったのか分からなかった。トレーニング自体はよかったのに、ゲームの最中は心の中でこう思っていた。『僕はここにいられないんだ』ってね。それはみんながスペイン語で話していたからだったのかもしれないけど」
結局、数々の入団テストはエリクセンの人生を形作る良い経験になった。イタリアでの3回目のテストは、彼の憧れだったブライアン・ラウドルップがプレーしたあのクラブで行われた。
父トマスは「クリスティアンが16歳の時、我々は1週間をミランで過ごした。本当に良い経験だった。練習施設もスタッフも良かったし、クリスティアンに興味を示してくれたユースの監督とも話ができた。だがオーデンセは高額な移籍金を要求したんだ」と語っている。
父子はどこにでも行く決意を持っていたはずだが、トマス曰く、クラブと選手の間にしっかりした話し合いすら持たれていなかった。そんな時、他のティーンエージャーならすっかり落胆していたかもしれないが、エリクセンはしっかりと前を向いていたのだ。
当時の指揮官アンダース・スキョルデモーセは『ガーディアン』にこう語っている。「彼がテストから戻ってくると、他の子供達は彼に『ミランはどうだった?』と聞いていたよ。でも彼はこう答えるんだ。『良かったよ。さあ練習の準備はできてる?』とね。エリクセンじゃなかったら有頂天の状態から抜け出せていなかったと思う」
エリクセンの父もそれを認めている。「テストの翌日にオーデンセでしたトレーニングも、彼にとっては同様に楽しいものだったんだ。それが彼の精神的な強さの理由なんだ。ビッグクラブが興味を示していようが彼の気持ちには全く影響がなかった」
エリクセンの冷静さは、アヤックスに移籍した時にも再度明らかになるのであった。振り返ってみれば、この移籍が彼にとって極めて重要なターニングポイントとなったのだ。
■成功が運命づけられた夜
ブレダとの試合は1-1の引き分け。残念な結果となってしまった。強豪アヤックスにとって、いわゆる格下相手に面白くない結果であった。PSVとの勝ち点差はすでに「9」まで開いていた。そんな困難な状況ではあったが、この試合でピッチに立った青年にはスポットライトが当たっていた。
「25歳の選手のようなプレーだった。彼ぐらいの歳の時なんか、ミスを恐れるあまりボールを持った時にそんなにチャレンジをしたいとは思わないだろう。だが、クリスティアンはそんな怖気づいたプレーはしなかった。リスクにリスクを重ねてプレーしていた」こう語るのは、エリクセンをトップチームデビューに導いたヨル。オランダのメディアは、そのデビュー戦を目にして次々に称賛の声を並べ立てた。ジャーナリストの中には、2007年に移籍したヴェスレイ・スナイデルの「後継者」だと褒め称える人さえもいた。
ヨルは語る。「彼の笑顔を忘れることはできないよ。クリスティアンは大声で笑うタイプではなかった。そう、彼は微笑んだんだ。彼が微笑む時は、ハッピーな証拠だ。プレーがうまく行った時は、いつもそうやって微笑んでいたよ」
ヨルはまさに彼の笑顔を知りすぎた。トップチームへ昇格させ、寒い1月の日にデビューさせて以来、アヤックスはエールディビジ23試合連続無敗を成し遂げたのだ。そのうち、エリクセンは18試合に出場している。
しかし、それでもまだ当時のアヤックスは不名誉な時代の最中だった。リーグ優勝から遠ざかっていたのだ。アヤックス不遇の時代である。
当時のチームは、現トッテナムのヤン・フェルトンゲンやトビー・アルデルヴァイレルト、さらには元バルセロナのオレゲール・プレサスやガブリ(ガブリエル・ガルシア・デ・ラ・トーレ)、そして元マンチェスター・ユナイテッドのダリー・ブリント(のちにアヤックスに戻ってくることになる)など、多くの有名選手で構成されていた。さらに今や世界最高の9番であるルイス・スアレスも在籍し、マルコ・パンテリッチ、マルテン・ステケレンブルフ、エマヌエルソンやグレゴリー・ファン・デル・ヴィールもいた。トップクラブで地位を確立したスタープレーヤーたちの集う、エリート集団だった。
Getty Images「当時10番のようなプレーをする選手はいなかった。6番と2人の8番と一緒に4-3-3のシステムをやっていたから、本当に10番的な選手が欲しかったんだ」と、ヨルは語る。彼はシーム・デ・ヨングをプレーメーカーとして起用して試したりもしたが、満足いく出来ではなかった。「デ・ヨングはよかったよ。でも、クリスティアンは唯一無二だったんだ」
エリクセンは17歳にしてその実力をまざまざと見せつけていたので、プロ契約を結ぶ以外の選択肢は存在しなかった。「いまアヤックスにはフレンキー・デ・ヨングがいて、彼と同じようなキャリアパスを描いている。だが、クリスティアンは今でもこのクラブの直近15年~20年間で最高の才能だ」
エリクセンはリーグ戦残り16試合のうち14試合に出場した。彼のデビュー以来、リーグ戦17試合のうち15試合に勝利した(残り2試合は引き分け)。しかしシーズン終了時にはタイトルを掴める順位ではなくなっていた。
翌シーズンの前半は、アヤックスはまともなスタートを切ることができた。17試合で10勝。エリクセンはこの期間中4試合の先発出場と、あまり貢献できなかった。12月、アヤックスはPSV、トゥエンテ、フローニンゲンに続いて4位につけていた。
ヨルはこのタイミングで監督の座を退き、U-19の監督であったフランク・デ・ブールに引き継がれた。ここで次のステージが始まったのだ。アヤックスにとっても、エリクセンにとっても。
デ・ブールは12月6日にアヤックス指揮官に就任した。その二日後、エリクセンを取り巻く環境がすべて変わるような試合が行われる。
アウェーゲームに訪れたアヤックスのサポーターは、全席ソールドアウトのサンシーロに陣取った。ミランサポーターが要塞と呼ぶあのグランドに詰めかけていた。光の洪水がその夜を明るく照らし、チャンピオンズリーグ(CL)のアンセムが鳴り響く。それは鳥肌が立つほどの光景であり、そこにいるフットボールのビッグネームたちもまた鳥肌ものだった。
ロナウジーニョ、アンドレア・ピルロ、クラレンス・セードルフ、チアゴ・シウバ、マッシモ・アンブロジーニ、マチュー・フラミニらがミランの先発メンバーを飾っていた。ズラタン・イブラヒモヴィッチとケヴィン=プリンス・ボアテングはベンチスタート。そしてその反対側のピッチには、18歳のクリスティアン・エリクセンがいた。エリクセンは特定の試合を印象深く語ったりはしないが、この試合で彼はワールドクラスの熟練たちの信頼を得るプレーをしたのだった。
この若いデンマーク人はシュートを放ち、ロングパスも出した。左右で何度も繰り返す。デュエルにも勝っていたし、他の選手よりも多くスアレスへボールを供給した。エリクセンのパスから迎えた決定機は、残念ながらものにはできなかったが。アヤックスはデミー・デ・ゼーウとアルデルヴァイレルトのゴールで2-0の勝利を挙げた。そのメンバーの一員だったクリスティアン・エリクセンは、93%のパス成功率を叩き出し、最高峰のステージで存在感を発揮した。この瞬間から、彼はどの試合にも出場できるようになったのだ。
デ・ブールとエリクセンはすでにU-19代表で馴染みの関係であったこともあり、彼の指揮下で2010-2011シーズンの残りの試合に全て先発で出場した。さらに、その全17試合中15試合で90分を戦い抜いた。キャプテンであったスアレスがその1月にリヴァプールへ移籍したが、「エースの離脱で勝てなくなった」という評価を払拭するためのキーパーソンだったのだ。そしてそのシーズンの最後には、クラブはエールディビジの王者に返り咲いた。
「7年ぶりのタイトルだったんだ、それがクラブのみんなにとってどれだけのことかわかるだろう。ものすごい快挙だったんだ。」エリクセンは歓喜の瞬間を語っている。
次のシーズン、アヤックスはさらに2つのタイトルを手にした。エリクセンはエールディビジ優勝のために欠かせない存在になっていた。アヤックス在籍最後の2年間で、彼は30アシスト(ドリース・メルテンスの31アシストに次いで2位)を記録し、さらにはパス成功率とセットプレーからのアシスト数で1位を獲得した。
エリクセンより5歳歳上で、当時誰もが認めるアヤックスのスタープレーヤーであったエマヌエルソンは、「ラファエル・ファン・デル・ファールトとスナイデルという最高のプレーヤーがチームを去った後、エリクセンは彼らの不在をすぐに埋めたんだ」と振り返っている。どんな場でも平然とプレーできることが、エリクセンと同僚たちとの大きな違いだった。
ヨル曰く「ベンチに座っているか、公園にいるみたいな感覚で平然とプレーする。緊張などないし、まるでプレッシャーを感じない」という。デ・ブールは、「彼は常に動いていたし、思考のスピードも早かった。それから、背中に目が付いているようだったんだ! 自分のことを見ていないと思って油断していると、実際は見られているんだ」と評している。
エリクセンの元同僚、レスリー・デ・サは忘れられないという。「エリクセンと他の選手の一番大きな違いは、ユースアカデミーからトップチームに昇格してもやり方を変えなかったことなんだ。彼は毎日ただ自分のやるべきことをやっていた。それは彼が選手として一流のメンタリティを持っている証なんだ。能力に自信を持っていることが、彼の個性に一役買っているんだ」
キャリアの初期から、エリクセンは完璧な選手とみなされていた。試合の流れに対する認識が高く、戦術眼もある。そして天性のストライカーなのだ。
デ・サはこう語る。「彼は優れた選手だった。動き、パス、テクニックは全て本当に素晴らしかった。だが、それにもましてシュートには目を見張るものがあった。彼に少しでもスペースを与えたら、それを利用できるんだ。彼はたったワンタッチで試合の行方を左右することができるんだよ」
ピッチの外でも、彼には新たな環境にすぐに溶け込む力があった。
デ・サは「加入して数カ月後にはもうオランダ語がペラペラになっていたし、チームメイトとコミュニケーションを取るのも簡単になっていたよ」と語り、エマヌエルソンは「冗談を飛ばしたりもしていたけれど、適切な時を選んでいたね」と付け加えた。
ヨルはこう証言する。「彼の頭の中はフットボール、フットボール、そしてフットボール……。それしかない。何をするか指示する必要はないんだ。もちろん決められた練習スケジュールやウェイトトレーニングがあるけれど、クリスティアンにも自分自身に明確な目標があった。彼は決められた時間以外でも練習していて、もっと時間を使ってシュート練習やFKの練習をしていた。彼はいつでも上達の手段を探していたし、自分が達成したいことをしっかり見極めていたよ」
アヤックスでの最後のシーズン、エリクセンはリーグ戦33試合に出場し24ゴールに直接関与した(10ゴール、14アシスト)。さらにCLでも6試合で5ゴールに直接関与(1ゴール、4アシスト)し、マンチェスター・シティとの試合でもアヤックスに勝利をもたらした。これが、エリクセンがより大きな舞台でチャレンジするに足るという、決定的な証拠になったはずだ。
■実現間近まで迫っていたドルトムント移籍
一方その時ドルトムントでは、前夜起こったことに対する動揺がまだ残っていた。当時の監督ユルゲン・クロップにとって、全てが崩れ始めていた。彼の世界はすっかりひっくり返ってしまっていた。
CLの準々決勝第2戦でマラガ相手にクロップが指揮を取り、マルコ・ロイスとフェリペ・サンタナが後半アディショナルタイムに2ゴールを挙げてから数時間後のことだった。あるニュースが全てを変えてしまった。最も才能溢れた、チームにとって貴重な存在であったマリオ・ゲッツェが、バイエルンへの移籍を申し込んだというのだ。
クロップは『DAZN』のインタビューの中で当時のことをこう語っている。「全く予期せぬことだった。ミヒャエル・ツォルクが練習場で話しかけてきて『話さなければいけないことがある。マリオがバイエルン・ミュンヘンに移籍する』と言ってきた。私はそのまま練習場を引き返して、オフィスから出て、家に帰って眠りについたよ」
「ちょうどその日の夜、ヴォータン・ヴィルケ・メーリング(ドイツの俳優)の上映会に出席する予定があったんだ。私の妻はドレスアップしていて、準備万端だった。だが私はこう言うしかなかった。『今日はもう何も出来ない』とね。フットボールのことをプライベートに持ち込む形になってしまって、タイミングが最悪だった。あの優秀な才能と一緒にマラガを倒して、準決勝に勝ち進む計画が崩れてしまった。そして、その問題をわずかな時間で解決しなくてはいけなくなってしまった」
同日、ドルトムントの練習場のあるブラッケルでは、100万人に1人のスタープレイヤー、ゲッツェの穴をどう埋めるべきか議論が始まっていた。次の数週間で、特に3人のプレイヤーに焦点を絞り、さらなる議論を進めていた。
彼らはヘンリク・ムヒタリアンに興味があった。ケヴィン・デ・ブライネについても話題に登った。そして、クリスティアン・エリクセンについても議論された。
クロップ、ハンス・ヨアヒム・ヴァツケCEO、そしてツォルクSDは2つの理由からエリクセンに注目した。ドルトムントは2012-2013シーズンのCLグループリーグでアヤックスと2度対戦。2試合ともドルトムントが勝利を収めたが、トップチームのスタッフはその時、試合を完全に支配していた信じられない才能を持つあの若いミッドフィルダーを認識したのだ。そのプレーは異様なほどゲッツェにそっくりだった。
エリクセンは、ゲッツェと同じ1992年に生まれ、同様に優れたテクニックと戦術眼を持っていた。彼らは揃って正確無比のパサーであり、スリムな体型からすばしっこく縦横無尽に動き回るプレイヤーだ。
ゲッツェはエリクセンについて語ってくれた。「そっくりな人間っているものなんだね。彼は僕と同じポジションでプレーして、同じプレースタイルで、同じようにスペースを見つけて創造性を発揮するんだ。彼は完全に(現所属)トッテナムにとって重要なプレイヤーだね。もちろん、彼のプレースタイルとアヤックスでの成功に僕たちの一番の共通点があると思う」
ドルトムントがゲッツェの代役を探していたその時、エリクセンも移籍先を探していた。
クロップはエリクセンを求めたが、ドルトムントはそのデンマーク人が激しいサッカーに適切なプレイヤーだと考えるに至らなかった。エリクセンのオフ・ザ・ボールでのクオリティに疑問符がつき、彼がゲーゲンプレスの戦術に適応できるのかが不透明だったのだ。
「プレイヤーとして、クリスティアンは非常に賢いので、当時のシャビや(アンドレス)イニエスタのように、直感的にスペースに入っていって他の選手を使うことができる。ディフェンス面では、敵の動きを他の誰よりもうまく予測できる」とリダースホルムは彼のフットボールインテリジェンスを評価する。
結局、ドルトムントは他の二人に興味を持った。そして、3人の中からムヒタリアンが選ばれた。
しかしその一方で、エリクセンは黒と黄色のチームに身を移すことを漠然と考えていた。2013年5月に行われたアヤックスの優勝祝賀会では、オファーさえ届けば新しいチャレンジをするつもりがあると語っていた。
ボルシア・ドルトムントに加入することについては「悪くない」と当時エリクセンは語っている。「彼らと2回戦って2回負けているけど、あのクラブに参加できるとしたら素晴らしいことだ」
数日後には、『NUSport』のインタビューで「ドルトムントは僕がプレーしたいと思っているクラブだ。そこでフィットすることができると思う。攻撃的で美しいフットボールをするチームだし、それは僕も好きなスタイルだ。それに彼らはタイトルを狙っているしね」とも話していた。
続いて、エリクセンはアヤックスとドルトムントの間で代理人を交えた話し合いが持たれていたことも明らかにした。移籍に向けた契約もあったが、結局のところそれは実現しなかった。ドルトムントはこのプレイヤーの獲得に向けてあまり熱心に交渉しなかったそうだ。
■新たな“キング”の誕生
唐突に、全デンマーク国民の目は自国の10番に向けられた。ダブリンのアビバ・スタジアムで行われた試合で、シェイン・ダフィーの放ったシュートはGKカスパー・シュマイケルの守るゴールに突き刺さった。その瞬間5万人のアイルランドサポーターは歓喜に湧き上がった。試合開始からたった6分後のことだった。
ファーストレグを0-0で終えたため、このままではデンマークの2018年ロシア・ワールドカップ参戦の夢は泡となって消えてしまう。
全ての注目はクリスティアン・エリクセンに向けられた。デンマークは、相手のホームでアイルランドを破るためならどんな膨大な労力も惜しまないだろう。しかもW杯出場の夢を果たすためとあってはなおさらだ。彼の双肩に重すぎるプレッシャーがかかっていた。
29分。エリクセンは左サイドをフリーで駆け上がり、ピオーネ・シストにボールをつないだ。そしてアンドレアス・クリステンセンがどこからかボールに飛び込んだ。同点。
32分。エリクセンは右足でゴール左隅に蹴り込んだ。これで2-1、逆転だ。エリクセンは立膝でコーナーフラッグに向かって滑り込んだ。アウェイサポーターは熱狂して彼の名前をコールした。
63分。エリクセンは17メートルのミドルシュートをゴールに収めた。この試合2点目だ「エリクセン!エリクセン!エリクセン!」デンマークのコメンテーターはテレビで荒々しく叫んだ。
74分。スティーヴン・ウォードのミスを狙ったエリクセンがフルスピードで突進し、ボールを奪い取ってゴールマウスに蹴り込んだ。彼はデンマークサポーターを狂乱に陥れた。ハットトリック達成だ。
アイルランドの警備員は、デンマークのサポーターがフィールドになだれ込むのを止めきれず、彼らはエリクセンを肩に乗せ、担ぎ上げて祝福した。
Getty Imagesデンマークの日刊紙『エクストラ・ブラデット』は「“キング”クリスティアンがデンマークをワールドカップに連れて行ってくれた」と書きたて、そこでエリクセンが2017年11月から成し遂げた偉業を書き記した。デンマークが世界に誇る“キング”であり、偉大なプレイヤー達の期待に答える逸材だ、と。
モアテン・オルセンは18歳のエリクセンを代表に招集するほかなかった。デンマーク代表を2000年~2010年まで率いたオルセンは、「彼がどれだけ特別な才能を持っているかは、見れば誰でもすぐに分かる」と語っていた。2009年の11月、オルセンはその姿を初めて目にしている。
2010年3月、彼はオーストラリアを相手に代表デビューを飾った。そしてその夏、W杯にもMFとして出場した。南アフリカ大会でエリクセンの謙虚さを彼らは目にした。オルセンはまたこうも語っている。「同時に健全な傲慢さを持っていたよ。ピッチでは自信に満ちあふれていて、もちろんうまく行った時には自信満々といった様子だった。謙虚と傲慢が混在していることは非常に面白い。明らかに高い技術を持っているが、彼は常によいプレイヤーになろうとして挑戦を続けていた。それも根気強く挑戦するんだ」
エリクセンは、彼が少年時代に憧れたラウドルップ兄弟と比較された。エリクセンは絶え間ない称賛を受ける立場になり始めていたのだ。2012年には、ポーランドとウクライナで行われたEURO2012で新たな主要国際戦に参加した。しかし、監督はエリクセンのここ数年の出場試合を見て、彼が持ち合わせていない技術に気がついたのだという。
「これほどのクオリティの選手がいるならば、他の能力も引き出してやる必要がある。個人的に選手を批評することでうまくいくこともあるけれど、人前でそうすることで潜在能力を引き出すことも時々考えなくてはいけない」
オルセンは記者会見で、エリクセンが試合をコントロールできず、アヤックスでやっているような水準のプレーができていないと公然と批判した。これは手厳しい発言だったが、うまく機能した。エリクセンは以降のデンマーク代表での20試合で15ゴールをマーク。眠れる猛獣はこうして覚醒したのだ。たった数カ月後のアメリカ代表戦では、初めて代表でキャプテンに任命されるまでになった。
デンマークはEURO2016の予選リーグでスウェーデンに2試合合計4-3で破れ、決勝トーナメントに進出できなかった。しかし、エリクセンは2018年W杯への道のりに歩を進めた。彼は予選10試合で8ゴールを決め、4アシストを供給。かくして調子を取り戻した彼はアイルランドとの試合で人生最高のパフォーマンスを披露し、デンマークの“キング”になったのだ。
結果的にクロアチアに敗れベスト16で敗退してしまったが、デンマークの人々は2018年W杯を熱狂的に観戦した。クロアチアGKダニエル・スバシッチを相手にPK戦となり、ラセ・シェーネ、ニコライ・ヨルゲンセン、そしてエリクセンも得点することができなかったが、誰もその敗戦を責めたりはしなかった。オルセンはユランズ・ポステンにこう語っている。「残念な結果だったが、サポーターはワクワクしていたと思う。誇りに思うべきだ」
エリクセンの状況は、代表チームを背負わなくてはならないという点でクリスティアーノ・ロナウドやリオネル・メッシによく似ている。彼個人に向けられる期待値は常に高い。しかし彼は自分の思うままにプレーを続ける。
「誰もが彼をミカエル・ラウドルップと比較するんだ。モダンフットボールでは、若い選手に対して辛抱しない。みんな若いフットボーラーに対してすぐに最高のパフォーマンスを期待してしまうんだ」オルセンは電話口でこう語った後、少しの間をおいてからこのデンマーク人の性質をよく表す短いフレーズを付け加えた。「でも、クリスティアンにとっては全く問題にならないんだよ」
■輝かしい未来へ
Gettyロンドン市のブレント区、11月の穏やかな夜。仮住まいのウェンブリー・スタジアムでその試合は行われた。ここはスパーズ(トッテナムの愛称)の本当のホームではない。ホワイト・ハート・レーンこそがホームなのだ。5万7132人のサポーターが集結し、シーズンを占う重要な試合を見ようとしていた。CLのインテル戦だ。
タイトな試合だった。得点機会は非常に少なかった。38分、ハリー・ウィンクスのロングシュートはクロスバーを叩いた。70分、フェルトンゲンはエリクセンのフリーキックを頭で合わせたが、ゴールを外れた。しかし80分、その時はやってくる。ムサ・シソコのダイナミックな上がりからボールを受けたデレ・アリは、クイックターンからショートパス。それを受けたエリクセンが冷静なフィニッシュを沈める。彼はトレードマークになった立て膝のスライディングでゴールを祝い、“ホーム”サポーターからも祝福を受けた。トッテナムはこの試合に1-0で勝利。決勝トーナメントに駒を進め、ラウンド16でドルトムントと激突することとなった。
まさにロンドンで、エリクセンは彼のキャリアを左右する最も重要な旅に乗り出した。2013年8月に彼がトッテナムに加入してから、イングランドに住んでプレミアリーグに慣れるまでに4カ月を要した。年が明けると、そのデンマーク人はついに本来の力を発揮し始め、ウェスト・ブロムウィッチとマンチェスター・ユナイテッド相手に得点した。
ノースロンドンでの初めてのシーズン、彼の歩みはケガのせいで一時的に止まることもあったが、それでもシーズン終了時には25試合で7ゴールを挙げ、8アシストを記録した。トッテナムはリーグ戦を6位で終えたが、その順位はトッテナムにとって残念な結果であった。シーズン終了後にはティム・シャーウッド監督が退任し、マウリシオ・ポチェッティーノが招聘された。
彼の指揮下でエリクセンはサイドのキープレイヤーになった。しかし、スパーズは成功を収め始めたものの、無冠の時代が続いた。トッテナムはここ数年でトップクラブの仲間入りを果たし、2015年は5位、2016年は3位、2017年は2位、2018年は3位で終えた。このチームの最重要ポイントはどこか? それはもちろん、クリスティアン・エリクセンだ。
「トッテナムで、クリスティアン・エリクセンはチームの心臓だ。どんなボールでも取ることができる」。スパーズで2004年~2007年に監督を務めた経験もあるヨルは語る。「相手がリトリートしてスペースを消しに来た時、彼はそんな状況でもポジションのギャップを見つけることができる。答えを見つけ出せるんだ。だが、同時にそれはスパーズの強みでもある。チームとしてプレーの主導権を握ることができる。もちろんほとんどクリスティアンのおかげだけどね。彼は常にそういうプレーをしている。ワイドでプレーはしないが、フォワードとしてプレーできる。リスクとチャレンジを常に求めている。彼は今やほとんどミスをしないよ」
トッテナムへ移籍してから、エリクセンは他のどの選手よりもアシストを決めており、枠内シュートを一番多くアシストしている。「はじめアヤックスにいた時は、70、80回もボールに触れていなかった。けど、技術は時間と共に上達しているし、今や彼はフィールドのどこにでも顔を出してくる」
「イニエスタと同レベルだと思う。ほとんど全てのトッテナムの試合をみているが、個人的にはクリスティアンはダビド・シルバと並んで世界最高の10番だ。シルバも恐ろしいほど傑出したプレイヤーだが、クリスティアンもだいたい同じくらいのレベルでプレーしている。シルバよりは足元が弱いとしても、クリスティアンはよくやれているよ」
エリクセンのプレーメーカーとしての技術はかねてから定評があるが、そのデンマーク人を「ワールドクラス」と評する声はまだない。イングランドにおいてもだ。
それでも、クリスティアンは日々どんどん進化している。ヨルはその進化に目を見張る。「アヤックスで2度ほど左サイドに起用したことがあった。彼自身そのポジションが好きではなかったけれど、今や、スパーズで左サイドのやり方を学習してしまった。完璧な選手だよ」
エリクセンのフィジカルもまた素晴らしいものがある。ヨルはこう付け加えた。「フィジカルは驚くほど強い。恐ろしいほどの距離を走っている。一試合で12kmとか13kmも走っているよ。どれほど彼が走っているか気が付かないだろう。彼の足は本当に速くて、フットワークが軽いからね」
エマヌエルソンはエリクセンのホワイト・ハート・レーンへの移籍は「まさしく」正しいものであったと評価しているが、こうも付け加えている。「彼はもっと大きいクラブでプレーする用意ができている。世界中のどんなチームに行っても中心的な役割を果たすだろう」
そう考えているのはエマヌエルソンだけではない。実際、このデンマーク人への評価として、こうした考えはよく聞くごく普通の意見になっている。
エリクセンのキャリアに唯一欠けていることがあるとするならば、タイトル数だけだ。スパーズでの5年半で、一度もトロフィーを掲げることができていない。
ヨルはこう言った。「もちろん彼はレアル・マドリーやバルセロナでプレーするに値する力がある。彼の移籍に1億ユーロ以上の価値がつくかもしれない」
リダースホルムもその意見に同意している。「彼は世界中のどんなクラブでもプレーできる。それは彼がどんなシステムにも適応できるからなんだ。本当に賢いプレイヤーだから、どこでも最高のレベルで試合ができる。たとえバルセロナやレアルでもね」
実際、その2つのスペインのビッグプラブは、このプレイヤーに興味を示しているそうだ。彼らはエリクセンの動向を静かに見守っている。エリクセンはまだ26歳であるし、彼には無限の可能性が未来に待ち受けている。そう、彼が少年時代から経験してきたような、輝かしい未来が――。
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