元西ドイツ代表MFのピエール・リトバルスキー氏は、「心の中では日本人」と感じているようだ。ドイツ誌『11 Freunde』のインタビューで人生を振り返るなかで明かした。
80年代の西ドイツ代表を象徴する1人のリトバルスキー氏は16日に還暦を迎えている。現役時代のほとんどはケルンで過ごし、Jリーグ初年度の1993年にはジェフユナイテッド市原に渡ると、1996年に移籍したブランメル仙台でもプレー。1997年にスパイクを脱いでからは、横浜FCやアビスパ福岡などの監督を務めた。
そんな“リティ“の愛称で知られる現在ヴォルフスブルクのブランドアンバサダーを務める同氏だが、『11 Freunde』のロングインタビューでは日本挑戦を決意した経緯も回想。「1992年にも浦和レッドダイヤモンズからオファーをもらっていたが、それは断ったんだ」と明かした上で、次のように語っている。
「1993年の春に、Jリーグの創設を手伝っていた元同僚のヤスヒコ・オクデラ(現横浜FC取締役会長の奥寺康彦氏)に話しかけられ、ジェフユナイテッド市原に誘われた。当時の私は『オキ(奥寺氏のニックネーム)、僕はそっちでどうしろと言うんだ?魚もサラダも好きじゃないし、そっちで飢死するよ。そもそも日本は正確に何処かも知らない!』と言ったね。すると彼は『ここに来てみれば好きになるさ』と返してきたんだ」
このように続けている。
「説得されるまで時間がかかったよ。結局ケルンでもあまり上手くいかなかったのでオファーを受け入れた。最初は5カ月間プレーする予定だった。(1992-93シーズン)第29節でニュルンベルク相手に2ゴールを挙げ、1部残留を決めてからシーズン終了を待たずケルンを出て行った。大きなスーツケース2個を持って東京に向かった。1個には服を積めて、もう1個にはバターやチョコレートとか食料品を入れていた。着いたら40度の暑さで、冬ジャンパーは脱いで、バターは溶けていた。すると5000人のファン、数十人の記者たちに迎えられたのだよ。完全に圧倒された。あれほど熱狂的に歓迎されるとは思いもしなかったからね。『彼らは何故僕を知っているんだ?』と不思議で仕方がなかった」
リトバルスキー氏は、しばらく日本での生活を続ける決心をしたのは「数日後だった」という。
「オクデラに言われていたまったくその通りになった。それと引き換えに、最初の妻と離婚することになってしまったけどね。彼女はドイツに帰国して、子供たちとそっちで暮らすことになった。辛い決断だったが、私は日本に残った。その数週間後に今の妻に出会ったんだ。彼女が日本を見せてくれたことで、より早く馴染めたよ。新しい人生の代償は高かっただろう。今でも最初の妻との2人の娘のうち1人としか連絡が取れていないからね」
日本のどのような部分に魅かれたのだろうか。
「特に大きいのは人間関係の部分だと思う。相手に敬意を持って接するところだ。ドイツでは、相手のことを知らなくてもすぐに判断し、先入観にとらわれることも多い。日本人は、ゆっくり考えてから判断する。私はその人生観、社会や文化における一体感をまるごと吸収したよ。(元ブラジル代表監督)フェリペ・スコラーリにはいつかブラジル人だと言われたことがあるけど、彼は正しくなかったようだ。私はおそらく心のなかでは日本人なのだよ」
インタビューでは「日本での生活によって自身がどのように変わったのか」、とも問われている。
「私はそこで生まれ変わった。それまでの人生に不満を抱いていたわけではないが、日本では新しい故郷、そして心のやすらぎというものを見つけ、それが今でも私を導き、自分の側にあり続ける」
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